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<行本明説(ゆきもと あきのぶ)業歴>
●―私のビジネスの出発点
学生時代に吉祥寺で始めた学習塾が私のビジネスの出発点です。仲間5人で、塾生は仲間の兄弟が数名だけという寂しいスタートでした。一軒家を借りて最初の1年あまりは家賃の3万円も払えない月が続きました。今から24年ばかり前の話です。当時、隣駅の西荻窪や三鷹で学生が運営する学習塾が結構繁盛していて、「俺たちにもできる」とたかをくくって始めてみたものの、商売とはなかなか厳しいもので、当時はやっていた「赤提灯」の歌詞のようにキャベツばかりかじってはいませんでしたが、パンの耳には随分とお世話になりました。
大学にも行かず、ただひたすら塾の授業の内容アップと生徒集めに持てる能力のすべてを使っていました。おかげで、大学は4年で卒業できず、危うく自主退学寸前のところ、国会で「移管学生臨時措置法」(確かこんな名前だったと記憶している)という素晴らしい法律が成立し、筑波大学に1年間お世話になりました。そんなわけで私は東京教育大学の最後の卒業生です。未確認ではありますが、多分卒業証書の番号も最後のはずです。
ところで学習塾の運営は、私にさまざまなことを教えてくれました。当時はコンサルタントになるなど夢にも思っていませんでしたが、結果として学習塾の経営に携わったことが、その後のサラリーマン生活、現在の仕事の基礎になっているように思います。
塾生が集まらないので、最初にとった対策は合宿生活でした。「とにかく合宿して臨戦態勢で臨もう」と、私以外は4人とも東京に実家があるにもかかわらず、家を離れ共同生活に入りました。学生にしかできないこの策を契機に塾生は確実に増え始めました。理由は簡単、毎晩のように飲みながら会議をし、翌日やることを討議する、その日やったことを確認する、この作業を行なうようになってからとにかく、前に進むようになったのを覚えています。このことにより、仕事は一人ではできない。複数の人間が協力して行うことにより、飛躍的に成果が出ることと、そのためのコミュニケーションの重要性を身をもって体験しました。また、「仕事のコンテンツ」という発想の原点にもなりました。
次に行ったのが、今で言えば、商品開発。小さな塾が乱立していた地域がらもあり、他の塾との差別化を徹底的に行いました。具体的には、他の塾より月謝を2000円(平均は5000円程度だった)高くし、その代わり、塾の授業以外に個別指導と称し、家庭教師と併用としました。これがヒットし、家賃も払えない状況が嘘のようにあっという間に教室も3か所となり、講師も50名近くを抱えるまでになりました。
しかし、良いことはそう長くは続かず、「儲けが出ると共同経営は破綻を来す」を地で行ってしまいました。苦労をともにした仲間と別れなければならないつらい状況となってしまいました。私が、合宿生活を離れ土浦の生活になれた頃です、仲間の一人の着服が判明しました。すったもんだの挙げ句、塾を解散することとしました。税務署に会社の清算の手続きをとりにいった際、担当の女性職員の方が「お疲れ様でした」と書類を定番挨拶で受け取ったにもかかわらず、「なんと優しいねぎらいの言葉」と当時は勘違いし、涙が止まらなくなったことを覚えています。今ではお役所の決まり文句、マニュアル応答と心得ているので感動することはありませんが・・・。この事件を通してリーダーシップ、組織を束ねることの重要性と難しさを高い授業料を払って勉強させてもらいました。
●―コンサルタント業務の最初の顧客は自分自身
そんなわけで、卒業後はまじめなサラリーマンで人生やり直しと決意し、就職活動に専念しました。とにかく手当たり次第会社訪問をし、「最初に内定を出してくれたところに就職する」という気持ちだけで展望も何もない就職活動でした。
そんないい加減な私でも拾ってくれる会社はあるもので、とにかく就職浪人をすることもなく、無事第二の社会人生活に入ることができました。
しかし、入社してからは驚くことばかりで、「10年はこの会社で頑張ろう。10年修行を積んだら、また自分で何かをやろう」と入社早々に自分に言い聞かせたのを覚えています。それというもの、自分の塾ではコピーはバンバン取り放題だったが、いちいち課長の了解が必要だったり、挙げ句は決算報告書を見れば、税引後利益が学習塾の3分の1もなく、「失敗したあ!騙されたあ!」が正直な気持ちでした。従業員300名は学習塾の講師の6倍でしたが、暗い気持ちになりました。
ところが、所属され、自分の担当業務が与えられると、成長期にあった会社ということもあり、とにかく忙しく、余計なことを考える暇もない状況でした。気がつくと社内の残業王をひた走る毎日で、月末には担当部長の「今月もお前の残業時間が一番、気をつけるように」が恒例のご指導でした。結局、管理職になるまでずっと残業時間では、常に社内のベスト3には入っていました。そのせいか、前の会社の仲間は、私がタイムマネジメントのコンサルタントになったことを納得する一方で、「お前がタイムマネジメント?!」と疑いの目で見ているのも事実です。
成長期にある会社はさまざまな不合理な問題が毎日のように発生します。それだけ、変化しているということなのですが、その渦中にいると会社が変化していると気づくより、いい加減な仕事の仕方の方ばかりに目が行ってしまいます。おかげで、コンサルタントになるのに貴重な体験をさせていただきました。
入社10か月目、部長から「残業時間が多すぎる」と厳しく問い詰められたことがあります。性格が素直でないので、「ハイ、気をつけます」とその場を取り繕い、それから、3日間残業して自分の仕事を分析しました。仕事を大中小の項目に分け、総項目数を出し、各項目にかかる時間を算定し、仕事にかかわる他部門、関連企業等をリストアップし、コミュニケーションの流れを把握して。「これだけの仕事があるから残業したくなくてもせざるをえない。どうしても残業を減らしたいなら人を増やしてくれ」と談判させていただきました。
今にして思えば、私のコンサルタント業務の最初の顧客は自分自身だったということになります。わが身を守るために、それ以降、仕事の仕方とか問題点の発見には極めて敏感になりました。また、この作業を通して感じていた、仕事が順調に進まないのは「他人がいるから」の発想は、本書の考え方の基本となっている「仕事のスペクトル」という考え方を導き出すヒントとなりました。
そんなこんなの多忙の中、仕事をしていると、あっという間に時間は過ぎるもののようで、「10年間だけサラリーマン」の決意も忘れかけたころ、転勤の辞令を受けることとなりました。ちょうど入社してから10年目の秋のことでした。辞令の内示を受けて、忘れていた10年前の決意が蘇り、先の展望もないまま、会社を辞めることにしました。
辞めた翌日から、失業保険をもらうこともなく、大して経験も実力もないにもかかわらず、サラリーマン時代の経験を活かして不動産コンサルタントとして再出発いたしました。今考えるととんでもない無謀な選択です。今の私なら決して選択しない方法です。不動産の知識は多少なりともありましたが、コンサルティングに関する知識はゼロです。商売になろうはずがありません。まだ、学習塾を再度始めたほうがよっぽど気が利いています。
しかし、人と同じことや一度やったことをもう一度やるのを潔しとしない生来の性格のため、未開の地に足を踏み入れました。今でもタイムマネジメントのコンサルタントが表の顔なら、不動産コンサルタントは裏の顔です。第4章の顧客接点の発想は、タイムマネジメントのコンサルタントとしての発想ではなく、不動産コンサルタントとしての発想から開発されたものです。
●―‘A’Timeとの出会い
再独立から6か月が経ったある日、サラリーマン時代のお客様から「セミナーの講師がいなくて困っているから、手伝ってほしい」と連絡が入りました。セミナーの講師などやったこともなかったのですが、不安、心配より好奇心の方が強く、内容もよく聞かずにお受けさせていただきました。それが、英国で開発されたセルフマネジメント手法「‘A’Timeセミナー」でした。とりあえず、講師のマニュアルをもらい、マニュアルの翻訳に参加したスタッフが講師を行ったセミナーにサポートとして参加しました。
講師はセミナーのプロではなく、翻訳のプロではありましたが、目からウロコがボロボロと落ちた感動は、間違いなくタイムマネジメントのコンサルタントとしての私の出発点でした。当然のことのように、その日からマニュアルの読破と理解に明け暮れることとなりました。
タイムマネジメントのコンサルタントとしてのデビューは東京ブラウスさんでした。役員の方を対象に1日のタイムマネジメントコースを実施させていただきました。英国のマニュアルどおりの何の工夫もない拙いセミナーだったと思うのですが、その場で全社導入を決定していただき、半年間かけて毎週毎週セミナーを行いました。
この東京ブラウスさんでの体験がコンサルタントとしての私の基礎をつくってくれました。相談する先輩コンサルタントもなく、とにかく講師マニュアルと出版されていた「Aタイム」(TBSブリタニカ刊)の本(実は英国でのセミナーの教材を翻訳したものなので単独で読破するのは難しい)、原文「A-Time」、そして受講していただいた東京ブラウスの社員の方々からの質問や感想をもとに何度も何度も自分なりに検討し、セミナースタイルとタイムマネジメントの考え方をまとめていきました。
東京ブラウスさんの仕事が終了する頃には、マニュアルを離れ、自分なりのセルフマネジメント、タイムマネジメントの考え方を体系づけることができるようになっていました。本書第3章の考え方の基本はこの頃にできあがったものです。東京ブラウスさんには感謝、感謝!!です。
また、この頃から企業研修だけでなく、オープンコースとして毎月1回程度、一般対象のセミナーも開催させていただきました。ところが、コンサルタント業界の門外漢が行っていますので、同業他社の名前も知らず、当時知っていたのは船井総研さんとボスコン、マッキンゼーぐらいで、随分と同業他社に貴重なノウハウをほとんどただ同然で提供してしまいました。随分後になって、本屋にホワイトカラーの生産性向上のシリーズで並んでいる本の中に、受講していただいた方や、受講者の所属する会社の代表者の方が書かれた内容を見て、愕然!「やられた!!」と思っても後の祭りでした。当時はまだ、本書の全編で何度も出てくる専門知識の重要性にはほとんど無関心な状態でもありました。
1991年の夏に初めて‘A’Timeの開発者であるJames Noon氏に会い、直接ノウハウの伝授を受けると同時に、日本でのセミナー内容の説明とチェックを受けました。2年間独自で行っていたため、オリジナル‘A’Timeと私の‘A’Timeの間には随分と差違が生じていました。それ以降、電話とFAX、場合によってはお互い行ったり来たりでノウハウをまとめていくことになりました。第1章で紹介してある歯車の考え方はこの作業の中で導かれたものです。
オリジナル開発者に自分の意見や見解を説明し、差違が生じている内容を日本版‘A’Timeとして認めてもらう作業は、現場での指導活動とは別の意味でタイムマネジメント、セルフマネジメントをより深く研究するチャンスを私に与えてくれました。1992年には日本、韓国など極東の‘A’Timeの責任者として‘A’Timeセミナー、コンサルティングを実施できるコンサルタントの養成も始めました。現在、彼らは本書の共同著者となっている「仕事の科学研究会」の主要メンバーとしても活躍しています。
●―新しいマネジメントモデルのイメージ創出へ
1993年の後半から1994年の前半にかけては、大変厳しい状況に追い込まれました。英国との関係も強化され、いよいよ本格的、大々的に‘A’Timeを日本に紹介しようとした矢先、英国の‘A’Time社が会社を清算する事件が生じてしまいました。
James Noon氏と共同で出版予定の「日本版‘A’Time」の企画は中止せざるをえないわ、某コンピューター関係の会社との世界的規模のプロジェクトは頓挫するわで突然ビジネスの転機を迎えて、否が応でも進路を明確に選択しなければならない状況となりました。結局、結論を出すのに、半年間を要してしまいました。‘A’Timeとの決別を決意し、タイム、セルフマネジメントの理論体系の再構築作業に着手することにしました。
その結果が『セルフマネジメント・スキルBOOK』『ザウルスで仕事革命』『続・ザウルスで仕事革命』(3冊ともTBSブリタニカ刊)の中で初めて紹介し、本書の考え方の基本ともなっている「仕事のスペクトル」「仕事のOS」という考え方です。
‘A’Time時代もそうでしたが、オリジナルのノウハウでセミナー、コンサルティングを実施しながら常に悩んでいた問題があります。それは、セルフマネジメント、タイムマネジメントの限界という問題です。つまり、セルフマネジメント、タイムマネジメントは個人にかかわるマネジメント技術ですから、100人社員がいる会社で一人だけがその技術を身につけてもその本人も会社もなかなか効果を実感できない、また効果が出ないという問題です。この問題は、タイムマネジメントのコンサルタントとなってからずっと持ち続けていた問題です。解決できずにいた問題でもあります。
ところが、1997年から「仕事の科学研究会」を設立し、ボイスメールを企業変革、組織改革の切り札的ツールとして位置づけ、各種セミナーや企業導入の指導を行う中で、ようやくこの問題を解決するヒントを得ました。本書で紹介している個人(社員)も組織(社長)もハッピーになる、つまり個人の生産性も組織の生産性も同時に向上させてための新しいマネジメントモデルとして答えを出すことができました。
この作業は、中野で中古カメラやAV機器、CDソフトを扱っているフジヤカメラ店の大月社長の協力なしには実現できませんでした。実験材料になることを百も承知で私の指導を受けることを快諾くださり、幹部社員の方にはボイスメールを導入し、毎週私のボイスメールでのタイムマネジメントレクチャーの受講をはじめ、各種調査、指導と毎週定例の大月社長との定例会談の中で新しいマネジメントモデルのイメージがもやもやとした状態からはっきりとした状態へと変わっていきました。
そして、本書の出版へとこぎつけることとなりました。さまざまな方々の深い愛情につつまれながら、本書が形になったことに今、本当に感謝の気持ちで一杯です。本書が日本中の経営者、管理職、社員の方々に少しでもお役に立てればこれに勝る喜びはありません。 |
1998年11月
『仕事を科学する―社長も変わるとき、社員も変わるとき』[東洋経済新報社]あとがきより |
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